vlastos’s blog

女子バレー雑録

つげ義春についての忘備録

 「ガロ」66.2月号の「沼」から68.8月号の「もっきり屋の少女」まではその前後の作品と隔絶した完成度と感じます。 

「やなぎ屋主人」もストーリーは興味深くはありますが、作品としては比較になりません。 
つげの中から何かが失われ、二度と戻らなかったのだと思います。 
つげ自身もそれを自覚していたのか、「もっきり屋」は「沼」で台詞をいただいた、井伏鱒二の「言葉について」へのオマージュになっています。


「沼」で始まった円環がここで閉じたのであり、 
「考えてみりゃあ もともと 考えることなんかなかったのだからね」 
という台詞は「沼」から「ゲンセン館」までの作品が示唆しながらも、語らなかったことではないでしょうか。(意識や反省に対する、現実の生や単純な言葉の優位
これを語ってしまってはその先はなく、終わりを予感しつつ、この台詞を書いたのでしょう。


「ぼくが思うには人間の内面なんていうのは一切関係ないと思うんですよ。リアリティというのは内面なんか外れて、具体的な出来事とか現象とか、もうまったく客観性のものにこそリアリティがあるんじゃないかと思えるんですよ。」(つげ義晴漫画術  P121) 


しかしながら、「考えることなんかなかった」ことは「考えてみた」からこそ分かったわけで、そうすると、「考えること」は有ったことになります。 

「沼」から「もっきりや」を読み返すことはこの循環に入り込んでは抜け出すこと、反復することでしょう。